光抱く刻




「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

「・・・・・・・・・・・・おい」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

「・・・・・・・・・・・・おい!」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

「・・・・・・・・・・・・いつまで呆けてやがるっ!」


――― だんっ!!

前に倒れそうなほどに背を叩かれて、ようやく総司が反応した。



色々と騒ぎを齎しはしたが、どうにか無事にセイが産み落とした赤子が、
今、男達の目の前にいる。

濡れそぼち泥に塗れた着物を着替え、顔や手足まで綺麗に洗い清めてきた
新米の父親が己の息子を凝視していた。

「はぁ・・・・・・小さいですよねぇ・・・」

里乃に抱かれた生まれたての赤子は大人しい。
先程までその小さな体のどこから出すのかと不思議に思えるほどの音量で
泣いていたのが嘘のようだ。
温かな母親の胎内から放り出された不安が、身に纏った柔らかな布地で
癒されたのかもしれない。

「はぁ・・・・・・壊れそうですよねぇ・・・」

総司とて生まれたての赤子を見た事はある。
さすがに姉達の子は生まれた直後に見る事は出来なかったが、近藤の娘の
タマは生まれたての真っ赤な姿を見もし、抱きもしていたのだから。
けれど自分の子となれば、また感慨も一入なのだろう。

ちょいちょい、と小さな手を突つき恐る恐るその手の甲を指先で撫でる。

「本当に大丈夫ですか? 真っ赤だし、小さいし・・・ちゃんと育ちます?」

不安げな表情は里乃の隣に座る松本法眼に向けられる。
その情けない顔をニヤニヤと見やりながら、松本が里乃の腕から
赤子を抱き上げようとした。

「だっ、駄目ですよっ!! 最初に抱く男は父親の私なんですからっ!!」

赤子を取上げるのは男に許されていない以上、最初に抱くのが
女子であるのは仕方が無い。
けれど男の最初は自分であるべきなのだ。

そんな総司の主張を知った上で松本はからかっているのだが、
頭に血が上った男は気づきもしない。
慌てたように赤子を自分の腕に抱え込んだ。


「・・・・・・どうだ? てめぇの子の重さは?」

穏やかに投げられたその松本の言葉に総司の腕が強張った。
そして改めてまじまじと腕の中の固まりを見つめる。

小さくて真っ赤なこのイキモノが、自分とセイの血を継いだモノなのだ。

「柔らかい・・・ですね・・・。今にも溶けて消えてしまいそうです」

未だ眼も開かない赤子だ。

「でも・・・とても・・・重い・・・」

硬く瞼を閉じて腕の中の存在に意識を集中するように、総司が頭を垂れる。
満ちる愛しさのままに抱き締める事など出来はしないけれど、
心の全てで抱き包むように。

ぐすり、と背後から鼻を鳴らす音が響いた。

振り返った先では近藤が真っ赤な眼をして涙を滲ませている。
隣に座った土方も感慨深げに父に抱かれた赤子を見やっていた。

「近藤先生・・・、土方さん・・・」

自分が幼かった頃から共にいた父とも兄とも言える男達だ。
その心情がわからぬはずもない。

「本当に・・・いくら勧めても嫁など取らないと言い張って、俺はお前の
 姉さん達に申し訳なくて仕方が無かったんだよ・・・。
 それがなぁ、こんな立派な跡継ぎを授かって・・・」

近藤が再びぐすりと鼻を鳴らし、後ろから肩を叩いてきた井上と
互いに「良かった良かった」と繰り返す。
その姿に総司が深々と頭を下げた。

そこに八木の妻女が総司を呼びに現れた。
後産も無事に終えたセイが、ようやく落ち着いたらしい。

「沖田センセとややに早ぅ会いたいて、待ってはりますぇ」

雅の言葉を聞いた瞬間、赤子に最大限の注意を払いながら総司が立ち上がった。





「・・・総司様」

布団に横たわったままのセイは子を産み落とす事に力を使い果たしたのか、
ひどく儚く見えて総司を不安にする。
駆け寄るように枕元に近づいて、セイの隣に生まれたての赤子を横たえた。
微かに首を捻ってその小さな命を見つめていたセイの瞳から、
ポロポロと大粒の涙が零れ出した。

「ごめんなさい・・・。・・・いらない、なんて言ってごめんなさい・・・。
 ・・・ごめんなさい」

掠れた声が先程までの悲鳴を思い起こさせる。
繰り返される悔悟の言葉は赤子だけでは無く、自分にも向けられているのだろう。
幾つも重なり合った不安に耐え切れず、表に出してしまった事を
この強い本質を持つ人は許せずにいるのかもしれない。
そんな優しくも強い女子が追い詰められるまで気づけなかった己が情けない。

総司は今更ながら自分の至らなさに苛立ちを覚えた。
けれど今はそれよりも大切な事があるのだ。

「ねぇ・・・セイ・・・?」

汗で額に張り付いたままの前髪を優しく除ける。
産みの苦しみの中で噛み切ってしまったのか、唇の端から血が滲んでいた。
未だ熱を持ったままの頬にそっと手を添え、傷口に唇を寄せて
朱の痕跡を舐め取る。

「っ!! ・・・そ、総司様っ、何をっ!」

想いを交わし、身体を重ね、子を産み落としたというのに、この程度の事で
カッと頬を染めるこの女子が愛おしくてたまらない。
総司の唇が笑みを象った。

「ありがとうございます・・・。健やかな息子を、可愛らしい子を私にくれて。
 貴女と、この子と、三人で生きていく未来をくれて・・・」

やんわりと細められた眼が幸せだと言っている。
セイの事も赤子の事も大切なのだと語ってくる。
頬に触れたままの手の平から、愛しさを温もりに変えて伝えてくる。
「いらない」と言った事など、気にする必要は無いと告げている。

一度止まったはずのセイの瞳から、新たな涙が溢れ出した。

「ああ、ほら・・・貴女が泣いてどうするんですか。
 泣くのはこの子の務めでしょう?」

困ったように男の手が幾度も涙を拭っていった。

「・・・少し待っていてくださいね。まだ近藤先生達に、この子を抱いて
 頂いてないんです。里乃さんにお願いしてきますから・・・」

一瞬不安そうに自分を見上げたセイに、やんわりと微笑みかける。

「すぐに戻ります。もう少し、貴女と二人だけで話をしたいから・・・」

その言葉に目元をほんのりと染めてセイが頷いた。





総司が赤子を里乃に預け、再び慌しくセイの元へと戻っていった。
けれどその姿など気にする者は無く、待ちかねたように近藤の腕に
抱え込まれた赤子を飽かず眺めている。

「まだ眼も開かねぇけど、これは総司に似てるんじゃねぇか?」

「う〜ん、赤子ってあんまり見た事無いけど色は黒いよねぇ」

永倉と藤堂の言葉に近藤が頷く。

「確かにタマはもう少し白かった気がするなぁ」

「若先生の娘ごはツネさんに似ていたから色白だったからのぉ」

井上がタマを思い出しているのか、遠くを見るように眼を細めた。



ようやく初孫を抱く事に満足した近藤が、里乃の腕に
赤子を戻すのを待っていたように土方が口を開いた。

「あんた達がこの餓鬼の生誕を心待ちにしていたのは知っちゃいるがな・・・。
 いくら何でも浮かれすぎってやつじゃねぇか?」

目出度い出来事に誰もが気持ちを浮き立たせているというのに、
その口調はひどく苦々しげだ。
いや、苦々しいどころか怒りを抑えているとしか見えない。
近藤が怪訝な顔を土方に向ける。

「歳?」

「どこの馬鹿がこんなもんを用意したんだか知らねぇがなっ!
 練り絹の白羽二重の産着なんざ、どこのお大名の若君のつもりだっ!」

その場の男達がはっと気づいて顔を見合わせる。
赤子がくるまれている布は絹。
背中に飾り糸で背守りが縫われているが、本来であれば白い木綿の産着の
上に重ねるおくるみはボロや継ぎ目のある物が良いとされるはず。
それがどういうわけか産着だけではなく、おくるみまでも真新しい
真白な絹で作られている。

土方の怒りも最もといえた。
幕府からの度重なる通達で絹の衣を身に着ける事が許されているのは、大名や
旗本、特に許された庄屋や名主、大商人などほんの一部の者でしかない。
新選組内でも近藤や土方、伊東など幹部の中でも上層の者だけなのだ。
組頭程度の総司の子供が身につけるなど、たとえ産着であろうとも
場合によっては罪に問われかねない事だった。

すぅっと表情を厳しくした男達が、互いの顔を見交わす。
その誰もがその産着を用意したのは自分では無いと首を振った。

この場に居る者達で無いというのなら・・・。
瞳に怒りを浮かべたままで、土方が総司夫婦を怒鳴りつけに行こうと
腰を上げかけた。

――― くっくっく

松本が口元を押さえて笑いを零している。

「松本法眼。何が可笑しいと言うのです?」

不愉快だ、と面に描いたままの土方の言葉に笑いを滲ませて松本が答えた。

「どこのどいつであろうと、この赤子の産着に文句は言えねぇぜ」

自信に満ちたその言葉を聞いて、土方の眉間に皺が寄る。

「たとえ一橋公や会津様からのお心遣いだとしても、幕府の御定法を
 曲げる事など出来はしませんよ?」

「ああ、そうだな。だがな・・・」

ニヤリと人の悪そうな笑みを頬に刻んで、松本が一拍置いた。

「これはな・・・上様から下賜されたんだよ」

里乃に抱かれた赤子を眺めながら意地悪く語る松本の言葉に一同が固まった。



以前セイが慶喜に贈った匂い袋を譲られた家茂が、その作成者である女子が
身籠っていると松本から聞き、赤子の産着にせよ、と与えた物だった。

それなりに世情を知っている慶喜や周囲の家臣から助言を受けられる
容保であれば、まさか大名家の子供でもあるまいし練り絹の産着など
着せられるはずも無いと理解する所だが、生粋の御殿育ちで
下々の世情に疎い家茂にそんな知識はあるはずも無い。
近侍の者達にしても将軍からの下賜の品が晒し木綿などというのでは
体裁が悪いと口を噤む。
その結果、白の練り絹一反が赤子の産着にと与えられる事となった。

単純に譲られた匂い袋への返礼であり、たとえ身分に相応しく無いとしても、
将軍からの下賜の品だ。
「赤子の産着にせよ」と言われた以上、それを違える事などできはしない。
そして公儀の誰であれ、それを罪であるなどと言えるはずもない。

そう。
確かにこの件に関して、文句を言える人間など存在しなかったのだ。


――― ずざっ!

近藤が音を立てて後ずさると赤子に向かって平伏する。
一瞬何事かと眼を瞬いた土方だったが、すぐにその意図を察して
苦笑しながらそれに倣った。
他の幹部達も同様に姿勢を正し頭を垂れる。

「恐れ多くも将軍家より下賜されし産着。申し訳無き事ながらこの場に
 おりませぬ父、沖田総司に代わり、この近藤伏して御礼仕ります。
 そしてこの赤子を心して強き武士に育て上げ、必ずや上様の御為に
 働く兵と致します事をここに誓い上げ奉ります・・・」

まるで眼前に将軍がいるかの如き近藤の口上と、風に倒される草のように
次々と下げられる男達の頭に驚いたのは里乃である。
赤子を抱いたままでいたために、自分に向かって泣く子も黙る
鬼の集団の幹部達が平伏しているのだ。

(な、なんやのぉぉぉ!)

半泣きになった里乃が助けを求めた視線の先では、
松本が腹を抱えて笑っていた。




その夜、近づきたいとも思っていない間借り人である新選組幹部が揃って
紋付袴の正装で西本願寺門主広如の元を訪れ、安産祈願の修法の礼として
多大な金子を献じて行った。
憎いとも言える男達であったが、その礼を尽くした対応にはさすがに西本願寺の
僧侶達も感心し、また同じ女子としてセイの安産を内心で祈っていた女子衆も
喜びの溜息を零したという。

また壬生寺の境内ではセイに贈られていた安産守りやお札を隊士達が
盛大にお焚き上げし、そこに広如から出産祝いの樽酒が届いたものだから
夜が明けても飲めや歌えの祝宴が続く事になった。
お焚き上げの火は壬生の夜空を焦がし、一時何事かと村人を驚かせたが
セイの出産を知ると八木家を始めとして村人総出で祝いに加わった。
そのせいで出産の手伝いにクタクタだった八木の妻女は、宴が果てるまで
休む暇無く立ち働かされ、後に「自分が子を産んだ時よりも疲れた」と
笑いながらセイに語った。





「セイ・・・」

一刻半から二刻に一度、乳を求めて泣く赤子のためにゆっくり眠る事が
出来ないセイの隣に総司は横たわっている。
先程乳を与えたばかりだ。
今はセイも束の間の眠りに落ちていた。

「・・・・・・すごいですよね・・・、貴女は・・・」

行灯の灯りを遮るように、総司の体が影を作っている。

「優しい女子で、強い母で、そして・・・武士の魂も持っている。
 本当に・・・すごい・・・」

眠る人を起こさぬようにと囁きよりももっと小さな総司の声音が唇から漏れる。
セイの肩からずれ落ちかけた掛け布を直そうと手を伸ばした時、
小さな手の平が重なった。

「・・・すごくなんて・・・ないです・・・」

「起きて、いたんですか?」

ゆるりと半身を起こした総司が問いかける。

「半分寝ていたかもしれません・・・でも、気になってしまって・・・」

セイが総司との間に横たえられている小さな命を愛しげに見やった。

「大丈夫ですよ。お腹がいっぱいになって、気持ち良さそうに眠っています」

「はい・・・」

その言葉に母親になりたての女子が小さく頷いた。

「私は全然すごくない。強くないしきちんとした女子でもない・・・」

総司は松本の言葉を思い返す。

『隊に居た間は女子を捨てていた自分は女子として未熟なのだ、とセイは
 気にしていたんだ』

くっ、と総司の喉が鳴った。
未熟どころか漏れ出す女子としての輝きが、どれほど自分を翻弄した事か。
けれど、そんな事をこの人は知らなくて良いのだ。

「未熟という点では私も同様です。いつも貴女や斎藤さんに“野暮天”と
 責められてきましたからね」

可笑しそうに笑うその表情を見て、セイの頬からも強張りが解けてゆく。

「未熟な父と母。二人揃って一人前です。それで良いじゃないですか」

自分の頬をするりと撫でて微笑む男に向かってセイも笑みを返した。
数瞬見つめ合った後、揃って間に眠る小さな命に視線を移す。

「それから、この産着・・・。今日は有り難く着せていただきますけど、
 明日は着替えさせましょうね」

「・・・副長、怒ってたでしょうね」

セイの言葉に総司がクスクスと声を立てる。

「下さった方を聞いたら怒れるはずもないですよ。でもそれよりも近藤先生が・・・」

「ああ・・・きっと・・・」

セイの脳裏に感激の余り滂沱の涙を流す近藤の姿が浮かんだ。

「ええ。この子が生まれた感動と上様からのご温情に、四半刻近く
 男泣きに泣いていたそうですよ」

「やっぱり・・・」

ふぅ、とセイが溜息を零した。
人が良く感受性の強い上様至上主義の近藤だ。
いきなりそんな出来事が重なったなら、きっと感動に泣き咽ぶと思ったのだ。

「本当に・・・タレ目のおじちゃんは人が悪いんだから・・・」

皆を驚かす為に黙っているようにと厳命していった松本を思って
セイの眉根がしかめられた。
総司達だとて直前に知らされた事で、近藤達とそう変わらない立場だ。
セイが不安定だという事に総司の意識は向いていたし、セイ自身も細かい事を
気遣える状態ではなかったので、放置されていた事だったのだが。

「いいですよ。これは家宝にしましょう? いえ、もしかしたら『隊宝』に
 なるかもしれませんね・・・」

クスクスと総司が笑う。

「もう・・・総司様ってば。呑気なんですから・・・」

「これはね、いつかこの子を守る盾になってくれるかもしれません。でもそれは
 今では無い。今は身の丈に合った、私達の子供らしいもので充分でしょう?」

穏やかな総司の言葉にセイが頷いた。
将軍家茂からの下賜の品というものは、確かに様々な恩恵を
この子に与えるかもしれない。
けれど同時に過分な重圧もかかる事になるだろう。
それを自分達は望まない。
新選組という小さな組織の一員である父を持ち、少し風変わりな母を持った
ただの子供でいさせたいのだ。

「私達の子、ですからね・・・」

愛おしげに総司が赤子を見つめる。

「はい・・・」

セイも同じように赤子に視線を向けた。


――― んっ、ふっぎゃぁぁぁ!!

突然、深更の静けさを破る音量で泣き声が響き渡った。


「う、うわっ。え? 乳・・・は、さっき飲んだばかりだし・・・・え?」

「え? え? お、おしめ? ええっ?」

――― ほぎゃぁ、おぎゃあ、おぎゃぁぁ!

「沖田先生っ、お尻っ! お尻、濡れてないですかっ?」

「ぬ、濡れてますっ! 神谷さんっ、おしめの替えはどこ?」

「それはここにっ! って、先生、おしめなんて替えられるんですかっ?」

「出来ますよっ! ・・・た、たぶん・・・」

「多分って何です。ほら、貸して。これはこうやって!」

「前に団子を作ってどうするんです、神谷さん!」

――― うぎゃぁぁぁ!!

「うわぁ〜〜〜! 今っ、今、何とかしますから。少し待ってくださいよぉ」

「赤子にそんな事を言っても通じませんってば、沖田先生ったら・・・」

「・・・土方さぁぁぁんっ!!」




半泣きの若夫婦がいる。
混乱すると「神谷さん」「沖田先生」と馴染んだ呼び名に戻ってしまう二人だ。
けれど確かな繋がりを持った二人は、この先もその縁を大切に守ってゆくのだろう。

ひとつの命の誕生が、二人の上に眩い光を注いでいくのだから。